新書嫁レビュー
玉音放送のあの日、太宰治はただ「ばかばかしい」とつぶやいた
2026-06-05
終戦の日、国民は皆そろって泣き崩れた、と思い込んでいた
昭和二十年八月十五日。教科書や記録映像で繰り返し見てきた光景のせいか、その日の日本人は誰もが頭を垂れ、涙にくれていた——そんなひとつのイメージで、終戦の日を理解した気になっていました。けれど、本当にそうだったのか。何百万もの人がいて、感じ方がたった一色だったはずがない。そう思いながらも、具体的な誰かの姿として思い描くことはできず、ぼんやりとした全体像のまま受け止めていました。その平板な記憶を、鮮やかに塗り替えてくれたのが、中川右介著『昭和20年8月15日』です。
中川右介著『昭和20年8月15日』はこちらから読めます。
一人ひとり、まるで違う「八月十五日」を生きていた
本書は、作家や映画監督、俳優、音楽家、歌舞伎役者、漫画家まで、百三十五人もの文化人が、あの日どこで何をしていたかを丹念に再現していきます。並んだ反応は驚くほどばらばらです。語りの名手として知られた徳川夢声は、初めて聞く天皇の肉声に身体が震えるほどの感動を覚えたと記します。一方で作家の太宰治は、「ばかばかしい」と繰り返しつぶやいたと伝えられます。当時十三歳だった後の映画監督・大島渚は、黙ったまま友人と将棋を指し続けていたといいます。当時二十七歳だった女優の高峰三枝子は、進駐してくる米兵に何をされるのかと身の危険におびえたと伝えられます。同じ放送を聞いていながら、感動も、反発も、恐れも、無関心もあった。歴史を「みんなの一色」ではなく「一人ひとりの色」として見せてくれるのです。年齢も、立場も、その時いた場所も違えば、ひとつの出来事の意味はこれほど枝分かれするのか、と胸を打たれます。本書には、ここで挙げきれないほど多くの人物のその日が、丹念に集められています。誰がどこで、どんな思いでその声を聞いたのか。その続きはぜひ本書で確かめてみてください。
「終戦」という言葉が、急に立体的に響き始めた
この視点を得てから、歴史の受け止め方が変わりました。以前は終戦の日と聞いても、決まりきった一枚の絵が浮かぶだけでした。けれど今は、その日にも数えきれない人生がそれぞれの場所で動いていたのだと、具体的な顔とともに想像できるようになった。たとえば八月十五日をめぐる番組や記事に触れたとき、ひとまとめの「国民」ではなく、戸惑った人、安堵した人、何も感じられなかった人、それぞれの八月十五日が同時にあったのだと感じられる。歴史が遠い出来事ではなく、無数の個人の集まりとして、ぐっと身近に立ち上がってくるようになりました。教科書の一行の背後には、これだけ多様な心の動きが折り重なっていたのだと思うと、過去の出来事を語る言葉そのものに慎重になります。大きな主語でひとくくりにする見方から、一人ひとりの顔を思い浮かべる見方へ。歴史との向き合い方が、静かに更新されました。
知らないままでは、歴史を「のっぺりした塊」として見ていた
この本を読まなければ、私は終戦の日を単色のイメージのまま、その奥にある一人ひとりの心の動きに触れずにいたはずです。著者の中川右介氏は、出版社アルファベータを創立し、雑誌『クラシックジャーナル』の編集長を長く務めた編集者にして著述家です。豊富な文献に基づいて評伝や文化史を数多く著してきた人物で、その丹念な調査の手つきが本書の説得力を支えています。膨大な資料を読み解いてきた著者だからこそ描ける、群像としての終戦があります。自分も歴史をひとまとめに眺めていたかもしれないと感じた方に、開いてほしい一冊です。
中川右介著『昭和20年8月15日』はこちらから読めます。
内容紹介
これは、もうひとつの「日本のいちばん長い日」だ。
あの日、36歳の太宰治は、玉音放送を聞いて「ばかばかしい」と繰り返した。
あの日、27歳の高峰三枝子は、米兵に襲われはしないかと不安を抱いていた。
あの日、13歳の大島渚は、黙ったまま友人と将棋を指しつづけた。
作家、映画監督、俳優、音楽家、歌舞伎役者、マンガ家……総勢135人の敗戦体験を、膨大な資料にもとづいて再現する。8月15日に誰がどこで過ごしていたかが一目で分かる地図や、略歴付き索引など資料面も充実。
■本書で取り上げる文化人
第一章 若者たち
三島由紀夫/司馬遼太郎/井上靖/松本清張/水上勉/円地文子/瀬戸内寂聴/大岡昇平/阿川弘之
第二章 文豪たち
川端康成/大佛次郎/菊池寛/林芙美子/宇野千代/宮本百合子/石川達三/太宰治/谷崎潤一郎/永井荷風/横溝正史/海野十三/江戸川乱歩
第三章 東宝
森岩雄/黒澤明/今井正/高峰秀子/志村喬/山本嘉次郎/原節子/山田五十鈴/長谷川一夫/三船敏郎/円谷英二
第四章 松竹
城戸四郎/五所平之助/佐々木康/並木路子/高峰三枝子/田中絹代/上原謙/加山雄三/笠智衆/佐野周二/マキノ正博/木下惠介/小津安二郎
第五章 大映
永田雅一/市川右太衛門/片岡千恵蔵/丸根賛太郎/嵐寛寿郎/阪東妻三郎/伊藤大輔/稲垣浩
第六章 演劇・音楽
島田正吾/古関裕而/菊田一夫/古川ロッパ/天津乙女/春日野八千代/岩谷時子/越路吹雪/ミヤコ蝶々/森光子/淡谷のり子/笠置シヅ子/服部良一/山口淑子/朝比奈隆
第七章 新劇
中村伸郎/山本安英/木下順二/杉村春子/千田是也/東山千栄子/村瀬幸子/滝沢修/宇野重吉/沢村貞子/丸山定夫/徳川夢声/土方与志
第八章 歌舞伎
初代市川猿翁/六代目尾上菊五郎/七代目尾上梅幸/十七代目中村勘三郎/初代中村吉右衛門/初代松本白鸚/初代中村錦之助/十一代目市川團十郎/二代目尾上松緑/六代目中村歌右衛門/十四代目守田勘彌/初代水谷八重子/二代目中村鴈治郎/坂田藤十郎/十三代目片岡仁左衛門/四代目中村雀右衛門
第九章 未来の音楽家、映画人たち
小澤征爾/岩城宏之/芥川也寸志/武満徹/吉田喜重/篠田正浩/大島渚/大林宣彦/深作欣二/高倉健/岡田茉莉子/有馬稲子/岸惠子/美空ひばり
第十章 未来のマンガ家たち
手塚治虫/藤子不二雄Ⓐ/楳図かずお/さいとう・たかを/石ノ森章太郎/松本零士/わたなべまさこ/赤塚不二夫/ちばてつや/白土三平/水木しげる/やなせたかし
第十一章 未来の作家たち
大江健三郎/石原慎太郎/井上ひさし/五木寛之/野坂昭如/星新一/小松左京/筒井康隆/田辺聖子/阿久悠/黒柳徹子
出版社による紹介文です(楽天ブックスの書誌情報より)。
書誌情報
- 書名
- 昭和20年8月15日: 文化人たちは玉音放送をどう聞いたか (NHK出版新書 744)
- 著者
- 中川 右介
- レーベル
- NHK出版新書
- 出版社
- NHK出版
- 発売日
- 2025年6月10日
- ISBN
- 4140887443