新書嫁レビュー
名前すら残っていない人の歌が、1300年後の自分に届いた。東歌と防人歌の正体
2026-04-20
万葉集の読み応えは、上巻で尽きると思っていた
上巻を読み終えたとき、ある種の満足感がありました。柿本人麻呂の悼亡歌、山上憶良の子を思う歌、額田王の恋歌——万葉集の精髄は、こうした名だたる歌人たちの作品にあると長く思い込んでいました。だとすれば下巻は、いわば「残り」ではないかという気がしていました。上巻ですでに心を動かされた後に、さらに同じ感動が続くとは思えなかったのです。どこかしっくりこない感じも残っていました。名だたる歌人の言葉だけが万葉集のすべてだとすれば、あれほど長く読み継がれてきた理由が、半分しか説明できない気がしたのです。
斎藤茂吉著『万葉秀歌(下)』はこちらから読めます。
名前すら残っていない人の歌が、最も深く刺さった
下巻を読んで最初に驚いたのは、「作者不詳」という言葉の多さでした。東国の農民や漁師が詠んだ「東歌」、辺境の守りに赴いた兵士やその家族が詠んだ「防人歌」——これらの多くは詠み人知らず、名前すら歴史に残っていない人たちの声です。
防人として辺境へ旅立つ夫を見送った妻の歌が、下巻には複数収められています。「韓衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来ぬや母なしにして」——遠い海の向こうへ向かう夫の衣の裾にしがみついて泣く子どもたちを残してきた、という意味です。作者の名前は残っていません。詠まれた年も確かではありません。それでもこの歌を読んだとき、子どもの泣き声と、港を離れていく船の姿が映像のように浮かびました。
斎藤茂吉の解説は短く、「涙ながらに詠んだことが歌の声調に出ている」と一言添えるだけです。論じすぎない。しかし何かを確かに言い当てています。東歌には方言の跡も残り、都の雅語とは異なる生きた言葉の響きが、いっそうこの歌を「今の誰かの声」のように感じさせます。本書にはさらに、万葉集最晩期を締めくくる大伴家持の歌や、東国の恋歌・旅の歌が数多く収められています。上巻が名歌人の結晶とすれば、下巻は万葉集の裾野の広さを見せてくれる一冊で、その全体像は、ぜひ本書で確かめてみてください。
「名もなき人の声」を知った後、日常の見え方が変わった
上巻を読んでいた頃は、万葉集の感動は「偉大な歌人の言葉に触れること」にあると思っていました。でも下巻を読んだ後、その感動の質が変わりました。名前が残っていないということは、その人が後世に残そうとして詠んだわけではないということです。それでも歌は1300年を生き延び、今ここにあります。
ある夜、長い出張の前日に家族の顔を見ながら、ふとあの防人の妻の歌が頭に浮かびました。別れという感情は身分も時代も関係なく、人間の内側に刻まれているものなのだと、その瞬間に感じました。「無名の人」の言葉が自分の今日の感情と重なるとき、1300年という時間の長さが急に意味を持ちます。歴史の中に名前すら残さずに消えた人の声が、今ここで自分に届いている——その体験は、上巻だけでは決して味わえなかったものでした。下巻を読む前と後では、「名もなき」という言葉そのものの重さが変わりました。
精神科医にして歌人が届けた、万葉集の「底」
東京帝国大学医科大学を卒業し、ウィーン大学・ミュンヘン国立精神病学研究所で研鑽を積んだ精神科医でありながら、昭和を代表する歌人でもあった斎藤茂吉。アララギ派の中心として正岡子規の写生論を継承し、柿本人麻呂研究で帝国学士院賞を受賞した人物が選んだ秀歌には、名声のある歌だけを並べた入門書とは異なる奥行きがあります。人間の感情を医師として分析し、歌人として表現し続けた人物だからこそ、この名もなき歌たちに手を伸ばせたのだと思います。
この下巻を読まなければ、万葉集を「名歌人の詩集」として誤解したまま終わっていたはずです。万葉集の底には、名前すら残らなかった人たちの声があります。それを知った後では、「無名」という言葉の意味が変わりました。今日どこかで感じているこの感情も、1300年後の誰かに届くかもしれない——そういう感覚を、この一冊が静かに教えてくれます。
斎藤茂吉著『万葉秀歌(下)』、購入はこちらから。
内容紹介
万葉集はわれわれ誰もが読むべき宝典であるが、巻二十まで読破しようというのは並大抵のことではない。歌壇の第一人者が、四千五百有余のなかから、すぐれた歌を選び、誰もが理解でき、味わえるように平易簡潔な解説を付した本書は、万人のための「万葉集入門」であると同時に、「万葉集精髄」を実現したことにもなる。
出版社による紹介文です(楽天ブックスの書誌情報より)。
書誌情報
- 書名
- 万葉秀歌 下 (岩波新書 赤版 6)
- 著者
- 斎藤茂吉
- レーベル
- 岩波新書 赤版
- 出版社
- 岩波書店
- 発売日
- 1948年1月20日
- ISBN
- 4004000033