学者は書斎にこもる人だと思っていた
フランス文学の研究者、それも『失われた時を求めて』という長大な小説をひとりで訳しきった人物と聞けば、静かな書斎で原書に向かい、世俗とは距離を置いて生きる人を思い浮かべていました。文学と社会運動は、別々の引き出しにしまわれているものだと、どこかで決めつけていたのです。その分け方は便利でしたが、いざ自分の生活を振り返ると、好きなことと社会への関わりがいつも噛み合わず、どこか後ろめたさが残っていました。ところがこの本を読んで、その線引きそのものが崩れました。プルーストを訳した手が、在日朝鮮人の差別問題に深く関わり続けていた事実に、認識が根底から揺さぶられたのです。
ペンを持つ人が、八年半の裁判に通い続けた
一九六八年、ライフル銃を手に旅館に立てこもり、日本人による在日差別を世に問うた金嬉老という人物がいました。鈴木道彦は文化人や弁護士とともに、この人物に呼びかける文書をまとめ、銀座のホテルから会いに行きます。そして驚くべきことに、その後の裁判を八年半にわたって支援し続けました。きっかけのひとつは、二人の女性を殺めた李珍宇が残した往復書簡集だったといいます。その一冊に衝撃を受けたことが、彼を在日論へと向かわせたのです。さらにベトナム戦争の脱走兵を救う活動にも関わっていました。文学を訳す静かな営みと、目の前の他者の痛みに身を投じる行動とが、ひとりの人間のなかで矛盾なく地続きになっている。本書では、この激動の六〇年代を彼がどう生きたかが、傍観者ではなく当事者の証言として綴られています。文学者がなぜ国籍や民族の境界線を越えようとしたのか、その内側の思考の道筋は、本書でこそ確かめられます。
好きなことと社会が、別物でなくなった
この本を読む前の私は、趣味や学問はあくまで個人の楽しみで、社会の問題は別の場所にあると分けて考えていました。ニュースで差別や戦争の話を見ても、自分の好きな世界とは関係のない遠い出来事として、すぐにスマートフォンの画面をスクロールして次へ進んでいたのです。けれど読み終えたいま、通勤電車で隣に座る人や、いつも通る商店街の店主の人生にも、自分が知らない越境の物語があるのかもしれないと考えるようになりました。たとえば近所で長く店を営む人の出自や来歴に、ふと想像をめぐらせるようになったのです。好きなものを深く知ることと、他人の痛みに想像を働かせることが、同じ一本の線でつながっている。そう感じられるようになっただけで、見慣れた日常の風景が少し奥行きを持って見えてきました。自分の関心の外にあると思っていた人々が、急に同じ世界の住人として立ち上がってくる感覚です。
知らないままなら、線を引いたままだった
この本に出会わなければ、私はずっと「学問と社会は別物だ」という思い込みを抱えたままだったはずです。著者の鈴木道彦は、井上究一郎に続いてプルーストの大長編を個人全訳した獨協大学名誉教授であり、二〇二四年に九十五歳で世を去るまで、文学と人権の両方に真摯に向き合い続けた人でした。その重みのある経歴があるからこそ、境界を越えようとした記録に説得力が宿ります。自分も知らぬ間にどこかへ線を引いて生きているのかもしれない。そう思い当たった方には、ぜひ本書でその時代の空気を確かめてみてください。