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新書嫁レビュー ・ 約 3 分

一本の記録映画は、なぜ作り手の人生を丸ごと巻きこむのか

ドキュメンタリーは、ただ事実をカメラで記録したものだと思っていた

ドキュメンタリー映画というものを、私は長いあいだ、起きた出来事をそのままカメラで写し取った客観的な記録だと思っていました。作り手の存在はできるだけ消して、事実だけを淡々と並べたもの、というイメージです。けれどテレビで次々と流れる映像を眺めながら、どこか満たされない感覚がありました。情報はあふれているのに、心に残るものが少ない。なぜ自分はこんなに見ているのに、何も考えなくなっているのだろう。その違和感の正体を、鎌仲ひとみさんたちの『ドキュメンタリーの力』が言葉にしてくれました。

記録映画は、作り手の問いから生まれる「市民メディア」だった

本書は三人のドキュメンタリー映画監督が、それぞれ自分の作品をどう作り上げたかを語った一冊です。鎌仲ひとみさんは「ヒバクシャ──世界の終わりに」を、金聖雄さんは在日一世の女性たちを撮った「花はんめ」を、海南友子さんは「にがい涙の大地から」を、制作の現場に立ち戻って振り返ります。そこから見えてくるのは、ドキュメンタリーが単なる客観的な記録ではなく、作り手が抱いた一つの問いから出発し、被写体との出会いのなかで形になっていく営みだということです。終章では、テレビが細切れの情報を流し続けることへの問題意識のもと、市民メディアとしての記録映画の可能性が、作り手自身の言葉で論じられます。被写体とどう向き合い、どこまで踏みこみ、何を映さないでおくのか。そうした一つひとつの選択の積み重ねが、一本の作品を形づくっていく様子が、現場の手触りとともに語られます。これらはあくまで監督たちの視点から語られた見解ですが、一本の映画が完成するまでにどれほどの試行錯誤があるのか、その舞台裏はぜひ本書で確かめてみてください。

映像の「向こう側」を想像するようになった

この本の語りに触れてから、映像との向き合い方が変わりました。以前はニュースやドキュメンタリーを、流れてくるまま受け身で眺めていました。けれど今は、この場面を誰がどんな問いを抱えて撮ったのか、カメラのこちら側にいる作り手の存在を自然と想像するようになりました。たとえば配信で記録映画を見るとき、一つのインタビューの背後に、撮影者が被写体と築いた時間や信頼があることを思い浮かべる。短いニュース映像を見るときでさえ、この数十秒のためにどれだけの素材が撮られ、何が選ばれ、何が切り捨てられたのかと考えるようになりました。情報を浴びるだけだった画面が、誰かの問いと選択の結晶として立ち上がって見えてくるのです。同じ映像が、編集という人の手を経た一つの表現として届くようになり、見ているのに考えなくなる、というあの違和感が、少しずつ薄れていきました。

受け身で映像を浴びていた自分を更新する

この本を読まなければ、私はドキュメンタリーを客観的な記録だと思いこんだまま、画面を受け身で眺め続けていたと思います。著者の一人である鎌仲ひとみさんは、カナダの国立映画制作庁で学び、「ヒバクシャ──世界の終わりに」で国内外の賞を受けたドキュメンタリー作家です。実際に何本もの作品を世に送り出してきた現場の作り手たちだからこそ、机上の論ではない記録映画の手応えを語れるのだと感じました。流れてくる映像に少しでも物足りなさを覚えている方に、見る目を一段深くしてくれる一冊です。

この本を手に入れる

ドキュメンタリーの力 (寺子屋新書) 鎌仲ひとみ, 金聖雄《キムソンウン》, / 寺子屋新書

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