「教育とは、子どもに知識を注ぎ込むこと」だと信じていた
教育という言葉を聞くと、私は長いあいだ「大人が子どもに知識や技術を授けること」だと思っていました。先生が黒板に書き、子どもがそれを写し、覚える。その積み重ねが教育なのだと、疑ったこともありませんでした。けれど、子どもの教育について真剣に考えるほど、どこか手応えのなさが残るのです。覚えたはずのことを忘れていく我が子を見て、いったい何のために教えているのかと、しっくりこない感覚がいつもありました。その違和感の正体を、矢川徳光著『教育とはなにか』が根底からひっくり返してくれました。
教育の主役は「教える側」ではなく、子どもの「発達」だった
この本が突きつけるのは、教育の中心にあるのは教える行為そのものではなく、子どもの中で起こる「発達」だという視点です。知識を一方的に注ぐ容器として子どもを見るのではなく、子ども自身が世界と関わりながら人間として育っていく、その過程をどう支えるかこそが教育の本質だと著者は説きます。つまり、教育とは大人の働きかけの問題である以上に、子どもの内側で芽生える力をどう引き出すかの問題だったのです。教える量を増やせば子どもが伸びるという素朴な前提が、ここで静かに崩れていきます。たとえば、同じことを教えても、ある子はすぐに飲み込み、ある子は時間をかけてようやく腑に落ちる。この差を「能力の差」として片づけてしまえば話は終わりますが、著者の視点に立つと、それぞれの子の発達の道筋の違いとして見えてきます。教える側が合わせるべきは、教科書の進度ではなく、その子の育ちの歩幅なのだと気づかされます。本書ではさらに、人間にとって学ぶとはどういう営みなのか、発達と教育はどう結びつくのか、そして社会は教育に何を託してきたのかという、より根本的な問いにまで踏み込んでいきます。教育を職業や日々の関心として持つ人ほど、ぜひ本書でその論理の流れを確かめてみてください。
子どもを見る目が、評価から成長の物語へと変わった
この視点を知ってから、子どもを見るときの私の目線が変わりました。以前はテストの点数や覚えた量で「できる・できない」を判断し、できないところばかりに目が向いていました。漢字を一つ間違えれば、そこを赤で囲んでやり直させ、何度も書かせる。それが教えることだと思っていたのです。けれど今は、昨日できなかったことに今日少しだけ手が届いた、その小さな変化に気づけるようになりました。たとえば、これまで途中で投げ出していた問題に、今日は最後まで向き合おうとしている。その姿勢の変化そのものを、点数とは別の成長として喜べるようになったのです。失敗してやり直す姿を、減点ではなく発達の途中経過として眺められるようになりました。教える側の都合で子どもを測るのをやめると、目の前の子どもが一つの成長の物語として立ち上がってきます。同じ子どもを前にしているのに、見えている景色がまるで違うのです。
半世紀前の問いが、今もまだ問い続けられている
この本を読まなければ、私はこれからもずっと「たくさん教えること」を教育だと思い込んだままだったはずです。著者の矢川徳光は、ロシア語を独学で習得してソビエト教育学を日本に紹介し、戦後は民間教育運動の理論的指導者として歩んだ教育学者です。一つの分野を生涯かけて掘り下げた人だからこそ書ける、教育の根を問う言葉がここにあります。一九七三年に世に出た本でありながら、教育とは何かという問いの手強さは少しも古びていません。同じ思い込みを抱えたまま子どもと向き合っているかもしれないと感じた方は、ぜひこの一冊を手に取ってみてください。