「死に方も葬られ方も、自分が自由に決めればいい」と思っていた
散骨でも家族葬でも、墓に入らない選択でも、自分の最期くらいは自分の好きに決めればいい。私はそう、わりと気軽に考えていました。多様な時代なのだから、誰に遠慮することもなく自由に選べばいいのだと。けれど、いざ自分の希望をはっきりさせようとすると、これは本当に自分一人で決めてしまっていいのだろうかという、うっすらとした引っかかりが残るのです。その正体を、橳島次郎著『これからの死に方』が静かに解きほぐしてくれました。
葬送は「送られる側」だけのものではなかった
この本が突きつけてくるのは、葬送とは死ぬ側の自由であると同時に、残されて送る側のものでもある、という視点です。生命倫理を専門とする著者は、自分の死後を自由に望む権利は誰にでもある一方で、その希望を遺族や医師に強制する権利は誰にもない、と指摘します。本書は葬式をする・しない、墓に入る・入らないという四つの組み合わせを整理し、そこに直葬や自然葬、家族葬を位置づけるところから始まります。そのうえで、尊厳死をめぐる米国やオランダ、フランスの現状、自ら関わった「葬送の自由をすすめる会」の歩み、献体や遺体をめぐる問題、フランスと日本の散骨規制の比較までを丁寧にたどります。たとえば、医学のための献体は広く受け入れられてきましたが、では遺体を車の安全試験や兵器開発のために用いることは、本人が同意していれば許されるのか。こうした問いを前にすると、自由という言葉がいかに簡単ではないかを思い知らされます。自由を支えているのは、その裏にある反対意見や規制と十分に向き合った議論なのだと教えられます。あとがきの「行く者も残される者も、お互いみな遠慮なく面倒な人になろう」という一文は、自由という言葉の手応えを変えてくれます。本書では各国の制度や歴史的背景まで踏み込まれているので、ぜひ本書でその思考の道筋を確かめてみてください。
「自分の希望」を、対話の出発点として考えるようになった
この視点に触れてから、自分の最期について考えるときの構えが変わりました。以前は理想の送られ方を一人で思い描き、それを家族にただ伝えればいいと思っていました。散骨にしてほしい、墓はいらない、と希望だけを書き留めておけば事足りると考えていたのです。今は、自分の希望を結論ではなく、家族と話し合う出発点として置くようになりました。私はこうしたいけれど、それを担う人はどう感じるだろうかと、相手の負担や気持ちまで含めて考えるようになったのです。たとえば、散骨を望むにしても、それを実際に行う家族がどこで何をすればいいのか、その手間や心の負担まで一緒に考えておく。死後のことを口にするのは気が重いものですが、生きているうちに何度も話し、双方が納得しておく。その積み重ねこそが、自由を本物にするのだと感じています。
生命倫理を歩いてきた研究者だからこそ
この本を読まなければ、私はこれからも死に方を自分一人の自由だと思い込んだままだったはずです。著者の橳島次郎は、生命科学や医療の研究と臨床をめぐる科学技術政策を専門とし、生命倫理と科学技術文明論を長く論じてきた研究者です。人の自由に対する温かなまなざしを通底させながら、自由とそれに伴う責任の両面を冷静に見つめます。自分の最期は自分の自由、と一度も疑わずに考えてきた方こそ、ぜひこの一冊を手に取ってみてください。