宗教とは「場所に行くもの」だと思っていた
ずっと、宗教とは建物の中にあるものだと思っていました。礼拝堂、寺院、教会——そういった特別な空間に足を運ぶことで初めて成立するものだと。神聖な場所があって、そこに集う人々がいて、そこに宗教が宿る。そんな固定観念を疑ったことは、長い間ありませんでした。現代を生きる私たちがインターネットと宗教を結びつけて考えようとしないのも、その思い込みのせいかもしれません。信仰とデジタル技術という二つの世界は、本来交わらないものだという感覚が、どこかにある。でも実は、その感覚こそが、21世紀の宗教空間を見えなくしている原因でした。
90年代末、神々はすでにオンラインにいた
本書が書かれたのは1999年、インターネットが日本社会に本格的に広まり始めた時期です。著者の生駒孝彰は、宗教大国アメリカの宗教情報をインターネットで収集する作業を続ける中で、衝撃的な現実に気づきます。アメリカの主要宗教団体のほとんどがすでにウェブサイトを持ち、礼拝の実況中継、説教の音声配信、信者どうしの掲示板コミュニティを運営していたのです。
テレビの宗教番組が隆盛を誇ったアメリカでは、カリスマ的な伝道師がスタジオから何百万人もの家庭に向けて語りかけることが当たり前の文化として定着していました。インターネットはその延長線上にあるどころか、さらに先へと進んでいました。一方向の放送から双方向のコミュニケーションへ、既存の信者へのケアから新たな魂の獲得へ——電脳空間は新しい宣教の場として機能し始めていたのです。
本書ではさらに、日本の宗教団体のネット活用との比較や、カルト宗教がインターネットをどのように利用しているかについても踏み込んだ分析が展開されます。宗教とテクノロジーの関係は、知れば知るほど現代社会の見え方が変わります。ぜひ本書で確かめてみてください。
知った後、ニュースの読み方が変わった
この本を読む前、私はSNSで宗教的なコンテンツが拡散されるニュースを見ても「珍しいな」と思う程度でした。でも読んだ後は違います。インターネットと宗教の結びつきは20世紀末にすでに始まっていた必然的な流れであり、その延長上に今日の状況がある——そう理解できたとき、世界の見え方が根本から変わりました。
スマートフォンの中で信仰が育まれる時代は、突然やってきたわけではありませんでした。礼拝堂に足を運ばなくても、画面の前で神に祈る人たちが世界中に存在するのは、長い時間をかけて積み上げられてきた変化の結果なのです。日常的にSNSを使い、動画を見て、コミュニティに参加する行為と、宗教的な信仰の実践が、構造的に似ているという気づきは、今の時代を生きる上での大切な視点になりました。
この視点を持ってから、テクノロジーと人間の精神性の関係について以前より深く考えるようになりました。情報社会と宗教が交差する地点を見落としたまま生きると、現代社会の重要な側面が見えないままになります。
この本を読まなければ、ずっと気づかなかった
生駒孝彰は龍谷大学で宗教学を教え、日米現代宗教論を専門とした研究者です。浄土真宗の僧侶でもあった彼は、ブリガム・ヤング大学で歴史学の修士号を取得し、アメリカのカルト宗教研究でも第一人者として知られていました。その生駒が直接収集し分析した一次情報が詰まった本書は、単なる評論ではなく、現場を知る専門家だからこそ書ける内容です。
インターネットがここまで生活に浸透した今、あらためて本書を手に取ると、1999年に著者が見ていた未来が確かに現実になったことを実感できます。宗教空間の変容を知らずにいることは、現代社会の精神的な地殻変動を読めないまま生きることと同じかもしれません。