「数字で示せ」が正しいと信じていた
会議でも、進路相談でも、健康診断でも、私たちは「客観的なデータ」を出せと求められます。主観は弱く、数字は強い。エビデンスのある話だけが信頼に値する。そう思い込んで、いつのまにか自分の実感を後回しにしてきました。ところが、データで武装した説明をしているはずなのに、どこか胸の奥がしっくりこない。自分が本当に感じていたはずのことが、平均値や割合に丸め込まれて、消えてしまう感覚です。村上靖彦さんの『客観性の落とし穴』は、その違和感の正体を静かに突きつけてきました。
客観性は「普遍」のふりをした「一般」だった
本書がまず解きほぐすのは、私たちが「客観性」と呼んでいるものの中身です。統計や数値は、無数の人を「五十歳前後の女性」のように束ねて平均化します。そのとき、一人ひとりが抱えていた固有の事情やリズムは、ノイズとして切り捨てられてしまう。村上さんはこれを、客観性が誰にとっても通じる「普遍」のふりをしながら、実は多数派の「一般」を押しつけているのだ、と指摘します。印象的なのは、数値で測れることだけを価値あるものとみなす社会では、測れない経験を持つ人が「存在しないこと」にされてしまうという話です。いじめや病いや貧困を生き抜いてきた個人の声は、グラフの一点に潰されてしまう。そして本書は、客観性への過信が、できない人を「努力が足りない」と責める自己責任論や、人と人を比べて序列化するまなざしにまでつながっていく、という道筋を丁寧にたどります。数字は中立に見えて、実は誰かを追い詰める道具にもなりうる。本書では、こうして切り捨てられた経験を、編集しない語りからすくい上げる現象学の方法が、後半の章でより踏み込んで展開されています。数値化に追い詰められた現代人がどこで立ち止まればいいのか、その手がかりが章を追うごとに見えてきます。
「私の感じ方」を肯定できるようになった
この本を読む前の私は、誰かに何かを伝えるとき、まず根拠を探していました。自分が「つらい」と感じても、それを裏づける数字や世間の平均がなければ、口に出してはいけない気がしていたのです。だから打ち合わせでも、自分の直感を「データはありませんが」と前置きして小さく差し出すのが癖になっていました。読んだ後は、目の前の人が語る一回きりの経験を、データに翻訳せずそのまま受け取れるようになりました。友人が仕事の悩みを話してくれたとき、以前なら「それは何割の人が感じることだから」と整理したくなったところを、ただその人だけの物語として最後まで聞けるようになった。自分の実感についても、「主観だから」と値引きせず、世界を見るための確かな入口として扱えるようになった感覚があります。数字に置き換えられないものこそ、自分が本当に大切にしている部分なのだと思えるようになりました。
知らないままなら、私は私の声を疑い続けていた
もしこの本に出会わなければ、私はこれからもずっと、自分や他人の生の声を「客観的根拠がない」と切り捨てていたはずです。著者の村上靖彦さんは、大阪大学教授で現象学・質的研究を専門とし、二〇二四年には本書が新書大賞三位に選ばれています。看護や訪問介護の現場で、語りに耳を澄ませてきた研究者だからこそ書ける、数字の外側にある真実があります。客観性を疑うことは、世界を雑に見ることではなく、もっと丁寧に見ることなのだと教えてくれる一冊です。