← ブックフィード 新書嫁 PR

新書嫁レビュー ・ 約 3 分

心は頭の中にある——その思い込みを、2000年分の思想史が覆す

「心」とは頭の中にある何かだと、ずっと疑わなかった

感情は脳が作り出すものだと思っていた。喜怒哀楽は、頭の中で起きる内側の出来事であり、体とは別の次元にある。「心が痛い」「胸が苦しい」という言葉はあっても、それは比喩に過ぎない——そういう認識があった。だとすれば、心の問題は頭で考え、頭で解決するしかない。悩みがあれば考え続ける。不安があれば分析する。そのループから抜け出せないとき、体を動かしても意味がないと思って、じっと頭を抱えていた。「頭が理解していても、体が動かない」という経験が何度もあっても、それは意志の問題だと自分を責めるだけだった。心と体がバラバラに感じられるその感覚の不快さに、ずっと言葉を与えられていなかった。

ところが、田中彰吾著『身体と魂の思想史 「大きな理性」の行方』を読んで、その認識が根底から揺らいだ。哲学と科学の2000年にわたる思索の末に浮かび上がってきたのは、「心は頭の中ではなく、身体と環境の『あいだ』に広がるものだ」という全く異なる見方だった。

ニーチェが「大きな理性」と呼んだもの

本書の出発点は、19世紀末のニーチェの言葉だ。ニーチェは「小さな理性」と「大きな理性」という対比を提示した。小さな理性とは、頭だけで物事を処理するマニュアル的な思考のこと。大きな理性とは、身体と魂をもって状況を察知し、自分が納得できる答えを探す骨太な知性のことだ。産業化が進む19世紀末に、ニーチェは頭だけで考える「小さな理性」への警告を発していた。

その後、本書はフロイトの精神分析、サルトルの実存主義、そしてメルロ=ポンティの身体論へと思想の流れを追う。メルロ=ポンティは「意識は身体の中にある」のではなく、「意識は身体を通じて世界と結びついている」と論じた。自転車に乗れるようになる過程を考えてほしい。頭で「バランスをとり、ペダルを踏み」と分析しているうちは乗れない。体が覚えたとき、初めて走り出せる。その「体が覚える」という感覚こそが、メルロ=ポンティが言う身体の知性だ。本書にはさらに現代の脳科学との接点や、スマートフォンやウェアラブル機器が「拡張された身体」としてどう理解されるかについても詳しく論じられている。ぜひ本書で確かめてみてください。

「頭で考えても変わらない」という感覚の、正体が見えた

この本を読む前は、不安や落ち込みに対して頭だけで向き合おうとしていた。考えれば考えるほど答えが出ない、そのループを意志力の問題として片づけていた。

本書を読んだ後、体を動かすことや、体を通じて感じることが「逃げ」ではなく、心と向き合う別のルートだと理解できた。走ることで気分が上がる、音楽を体で感じることで何かが変わる——そういった体験が「科学的に根拠がある」ことを、思想史の流れを通して理解できると、単なる気分転換の話ではなくなる。頭で考えることと体で感じることは対立ではなく、両方が合わさって初めて「人間が考える」という行為になる。その認識が変わると、悩みへの向き合い方が少し変わった。頭を休め、体を動かすことを自分に許せるようになった。

「心は頭にある」という常識が、一番の思い込みだった

この本を読まなければ、心と体を切り離したまま自分を責め続けていただろう。哲学の専門書のように見えて、読みやすく、しかも深い。2000年分の思索が一冊に凝縮されている。

著者の田中彰吾氏は東京工業大学大学院修了の研究者で、現在は東海大学文化社会学部教授・文明研究所所長を務める。専門は現象学と身体論で、ハイデルベルク大学での研究経験も持つ国際的な視点を備えた学者だ。本書はその長年の研究が、一般読者向けに丁寧に開かれた稀有な一冊だ。「心とは何か」「自分とは何か」という問いに興味がある人に、ぜひ手に取ってほしい。

この本を手に入れる

身体と魂の思想史 「大きな理性」の行方 (講談社選書メチエ 809) 田中 彰吾 / 講談社選書メチエ

次の一冊 ── 同じ主題「哲学・思想」

ジャック・ラカン──フロイトへの回帰 (岩波新書 新赤版 2097) 松本 卓也 / 岩波新書 新赤版 書評を読む →

← ブックフィードに戻る

身体と魂の思想史 「大きな理性」の行方 (講談社選書メチエ 809) Amazon 楽天