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新書嫁レビュー ・ 約 3 分

あの一冊を読んだ自分は、もう前の自分ではなかった

読書とは「知識を仕入れる行為」だと思っていた

本を読むのは、知らなかったことを学び、情報や教養を増やすためのもの。長いあいだ、私は読書をそういう実用的な営みとして捉えていました。読んだ内容を覚えていなければ、その読書は無駄だったとさえ感じていたのです。けれど、その考え方でいると、読んだそばから忘れていく自分に対して、どこか後ろめたさのような違和感がつきまといます。本書を読んで、その前提がやわらかくほどけていきました。一冊の本がもたらすのは、覚えている情報ではなく、その本と出会った瞬間の自分そのものなのだと気づかされたのです。

二人の書き手が、本をめぐる記憶を交互に手渡していく

本書は、哲学者の國分功一郎さんと、編集者の互盛央さんが、相手の文章に触発されながら交互にエッセイを書き継いでいくという、めずらしい形をとっています。対談でも往復書簡でもありません。全部で十六のエッセイが、二人の間で少しずつバトンを受け渡すように積み重なっていきます。鍵になるのは「観念連合」という言葉です。ある本の記憶が別の本の記憶を呼び起こし、その連鎖がさらに別の記憶へとつながっていく。二人の書き手の間で、百冊を超える書物をめぐる記憶のネットワークが少しずつ姿を現していきます。言及された本は写真入りで紹介され、ページをめくるとそこに一冊の本の表情そのものが置かれている。一冊の本が、内容だけでなく「それをいつ、どんな心持ちで読んだか」という時間ごと記憶に刻まれていることが、具体的な書名とともに語られていきます。本書には、人文書や人文学が軽んじられがちな時代に、なぜ本を読み続けるのかという問いへの、静かで熱のこもった応答がさらに深く書き込まれています。その続きは、ぜひ本書で確かめてみてください。

本棚を眺める目が、変わった

この本を読む前は、本棚を見て「内容を覚えていない本」に少しの罪悪感を覚えていました。読んだはずなのに何も思い出せない背表紙を、まるで自分の怠慢の証拠のように感じていたのです。けれど今は、その一冊を手に取った季節や、当時悩んでいたことまでが、背表紙とともによみがえってくるようになりました。学生時代に夢中で読んだ文庫を見れば、その頃に通っていた喫茶店の匂いまで一緒に立ち上がってくる。読書は知識を蓄える行為である前に、自分の人生の断面を本に結びつけていく行為なのだと、腑に落ちたのです。忘れてしまった本も、読んだ瞬間の自分を確かに変えていた。そう思えるようになっただけで、本棚の前に立つ時間が、後ろめたさではなく懐かしさに満ちたものに変わりました。

知らないままでいたら、読書を効率だけで測っていた

この本に出会わなければ、私はこれからも読書を「役に立ったかどうか」「内容を覚えているかどうか」だけで測り続け、本との関係をどこか味気ないものにしていたはずです。國分功一郎さんはスピノザやドゥルーズを専門とし、強い発信力で知られる哲学者で、互盛央さんはソシュール研究で和辻哲郎文化賞を受賞した編集者です。言葉と思想を生業とし、誰よりも本と深く付き合ってきた二人だからこそ書ける、本と人生の関わりについての豊かな記録がここにあります。読んだ本をすぐ忘れてしまう自分を責めたことがある方こそ、この本がそっと差し出してくれる、もう一つの読書のまなざしに触れてみてほしいと思います。

この本を手に入れる

いつもそばには本があった。 (講談社選書メチエ 700) 國分 功一郎, 互 盛央 / 講談社選書メチエ

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