「お遍路は仏教の信者が弘法大師を慕って歩く宗教的な巡礼であり、信心のない人には縁遠いものだ」とずっと思っていた
白衣を着て金剛杖を持ち、88ヶ寺を1400キロ歩くお遍路は、信仰を持つ人々の行為だと思っていました。テレビのドキュメンタリーで見るお遍路の映像は、どこか遠い世界の話に見えていました。自分には関係のない特殊な行為であり、深く考える必要もないという感覚がありました。
でも、年間10万人がこの巡礼に参加し続けているという事実に、何か説明できない引力を感じていました。信心とは別の何かが、それだけ多くの人を四国へと向かわせているのではないかという問いを、言語化できないままでいました。
辰濃和男著『四国遍路』を読んで、その引力の正体がわかりました。
1400キロを歩く中で人が問い始めるのは、信仰ではなく「自分の生き方」だった
著者が68歳で再び四国遍路に挑んだのは、信仰の深さからではなく「もう一度歩きたい」という内なる声からでした。1998年から2000年にかけて6回に分けて歩いた記録である本書は、お遍路が宗教的な完成を目指す行為ではなく、歩くという身体的な行為を通じて「自分はどう生きてきたか」「これからどう生きるか」を問い直す場になっていることを丁寧に描きます。
特に印象的なのは「おせったい」の文化です。遍路道沿いの人々が見知らぬ巡礼者に食べ物・飲み物・宿を無償で提供するおせったいは、単なる親切ではなく、弘法大師信仰が地域に根付いた形として長い歴史を持っています。その無償の行為と出会うとき、歩いている人の内側に何かが変わり始めます。歩くことで出会う自然の厳しさ、見知らぬ人との一期一会の深さ——本書にはさらに、88ヶ寺それぞれが持つ歴史と、遍路道が人々に与えてきた問いの全貌が語られています。ぜひ本書でその全貌を確かめてみてください。
「歩く」という行為への見方が根底から変わった
読む前と後で、旅や巡礼への向き合い方が変わりました。以前は四国遍路を「信者の行為」として観察の対象にしていました。でも今は、1400キロを歩くという行為が人の内側に何をするのかという問いとして受け取るようになりました。
具体的には、長距離を歩くという身体的な行為が、頭の中だけで処理できない問いを浮かび上がらせることがわかりました。「自分は何のために働いているのか」「これまでの選択は正しかったのか」——デスクの前では答えが出ないような問いが、歩き続ける身体の中で形になっていく。著者が68歳で再び歩いた理由が、読み進めるうちに少しずつわかってきます。信仰とは別の次元で、お遍路が年間10万人を引き寄せる力の正体が、自分の問いとして感じられるようになりました。
朝日新聞「天声人語」の担当者として知られる著名コラムニストが、68歳で歩いた遍路の記録
辰濃和男(1933〜2022年)は朝日新聞の記者として長年「天声人語」を担当し、日本を代表するコラムニストとして知られました。44歳で初めて四国遍路を経験し、68歳で再び挑んだ本書は、言葉を生業とする著者が「歩くことでしか出会えない問い」を丁寧に記した一冊です。宗教書でも旅行記でもなく、人が歩きながら問い直す「生き方の記録」として今も読み継がれています。
この本を読まなければ、四国遍路を信者のための宗教的行為として距離を置いたまま、歩くという行為が人の内側に問いを呼び起こす力と向き合う機会を持てないままでいたでしょう。