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新書嫁レビュー ・ 約 3 分

「宗教の指導者は俗世を超えた聖人であるべき」という前提が、蓮如という人間を見えなくしていた

「宗教者は俗世から離れた、清廉な聖人でなければならない」とずっと思っていた

宗教の指導者とは、欲望を超え、世俗の汚れとは無縁な場所に立っている存在だと思っていました。そういう「聖なる人」だからこそ人々を導けるのであり、世俗的な欲望や政治的な野心を持つ人間には、宗教的な権威は宿らないと信じていました。清廉であることが宗教者の証明であり、人間くさい欲望は弱さや堕落の証だと思っていたのです。だから歴史上の宗教者が私欲や権力への意志を持っていた話が出るたびに、どこか失望した気持ちがありました。

でも、歴史の中で民衆を本当に動かした宗教者たちの話を聞くと、その多くが激しい欲望と矛盾と苦悩を抱えた人間だったと知るたびに、「聖人であるはず」という前提と現実の間の乖離が気になっていました。その乖離の意味が、うまく言葉にならないままでいました。

五木寛之著『蓮如』を読んで、その問いに一つの答えが与えられました。

「聖俗具有」——聖と俗を兼ね備えた人間だからこそ、民衆に届いた

著者が蓮如に向ける眼差しの核心は「聖俗具有」という言葉です。蓮如は15世紀後半の本願寺宗主として日本最大の宗教教団を築きましたが、それは彼が「清廉な聖人」だったからではなく、俗世の欲望・悲しみ・権謀術数をすべて備えた人間くさい存在だったからだと著者は述べます。

親鸞が自己の「苦悩」を出発点としたのに対し、蓮如は現世を生きる人間の「悲苦」——悲しみそのものを原点としました。社会の底辺に生きる農民や庶民が抱える悲しみに向き合い、難解な教義を平易な言葉(御文章)に砕いて届けた。その行為の背景に、学術的な聖性ではなく、人間の生々しい痛みへの共鳴があった。本書にはさらに、蓮如の波乱に満ちた生涯と、下積みからの立身のドラマが描かれます。ぜひ本書でその全貌を確かめてみてください。

「難しい言葉で語る権威」より「平易な言葉で届ける人」への敬意が変わった

読む前と後で、伝えることへの考え方が変わりました。以前は「難しいことを難しく語ることが専門家の証明」という感覚がありました。でも今は、難しいことを易しい言葉に砕いて届けること自体が、最も深い理解と共感の表れだという見方ができるようになりました。

具体的には、何かを人に伝えるとき、「どれだけわかりやすく言えるか」を問うようになりました。複雑な言葉で語ることが「深み」を示すのではなく、聞いた人の心に届く言葉を選ぶことの方が、はるかに難しく、価値がある。蓮如が御文章という平易な言葉で民衆に届いたという歴史は、その原理の古さと普遍性を示しています。難しいことを平易に語れる人間がいるとき、そこには多くの人が見落としてきた知恵が凝縮されています。

深い精神文化への問いを持ち続ける作家が、「人間蓮如」に迫る

五木寛之(1932-)は直木賞受賞の小説家であり、長年にわたって仏教・宗教・精神文化を探求してきた著者です。本書を自ら「聖俗具有のモンスターともいうべき蓮如への私的なオマージュ」と呼ぶように、学術書ではなく作家の目線で書かれた一冊であり、それゆえに蓮如という人間の生々しい像が浮かび上がります。浄土真宗に縁のない読者でも、一人の人間としての蓮如の物語として十分に読めます。

この本を読まなければ、宗教者を「俗世から離れた聖人」として固定した目で見続け、聖と俗を兼ね備えた人間が持つ力の深さを見落としていたでしょう。

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蓮如 (岩波新書 新赤版 343) 五木 寛之 / 岩波新書 新赤版

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