「客観的なデータに基づく知識だけが正しい」とずっと思っていた
科学的に検証されたデータや論理的な根拠こそが信頼できる知識であり、経験則や直感は主観的で怪しいものだと思っていました。「感覚でわかる」「経験が教えてくれる」という言葉は、科学的裏付けのない曖昧な表現として低く見ていました。エビデンスがすべて——そういう価値観が当たり前になっていました。
でも、優れた医師や職人や教師が「理屈ではうまく言えないけれど、これでいい」と判断したとき、その判断が正しいという場面を何度も見てきました。データや論理では説明しきれないのに、確かに機能する何かがある。その「何か」をどう理解すればいいか、長い間わかりませんでした。
中村雄二郎著『臨床の知とは何か』を読んで、その「何か」の正体が言語化されました。
「臨床の知」は科学とは異なる、独自の構造を持つ知だった
著者が本書で提示するのは、近代科学の知(普遍主義・論理主義・客観主義)に対置する「臨床の知」という概念です。臨床の知は、コスモロジー(世界観的・宇宙論的な感覚)・シンボリズム(象徴的な思考)・パフォーマンス(身体的行為の重視)という三つの原理を持ちます。
医師が患者と向き合うとき、検査データだけでは把握できない「この人は今どういう状態にあるか」という全体的な判断が必要になります。ベテランの職人が材料に触れるとき、スペックデータにない「この木の性質」を手が知っている。教師が生徒を見るとき、テストの点数では見えない「この子が今詰まっているところ」を感じ取れる。これらは偶然ではなく、「臨床の知」という独自の認識様式の働きです。本書にはさらに、医療倫理と生命倫理の問題が臨床の知とどう関わるかを論じる章が続きます。ぜひ本書でその全貌を確かめてみてください。
「経験則」を馬鹿にする気持ちがなくなった
読む前と後で、現場の実践者への敬意の持ち方が変わりました。以前はデータや理論を持っていないベテランの感覚を、なんとなく古くさいものとして見ていたことがありました。でも今は、長年の実践の中で蓄積された身体的な知が、論文には書けない水準の精度を持つことがあると実感できるようになりました。
具体的には、仕事の場面で経験豊かな人の「これはこうした方がいい」という直感を、以前より真剣に受け取るようになりました。その根拠を言語化させることだけが「知の確認」ではない。言語化できないからといって根拠がないとは言えない。その視点が生まれてから、知識と経験のどちらを信頼するかという問い自体が変わりました。二つは対立するものではなく、それぞれ異なる認識の様式として共存しうる——その視点を持てたことで、学びへの姿勢が少し豊かになりました。
日本を代表する哲学者が、近代知の限界を静かに問い直す
中村雄二郎(1925-2017)は明治大学名誉教授で、フランス哲学・現代思想を専門とした哲学者です。長年にわたって「知とは何か」を問い続け、本書はその積年の思索の結実として1992年に刊行されました。医療・教育・芸術など多様な現場に根ざした議論は、専門分野を超えて多くの読者に影響を与えてきました。
この本を読まなければ、客観的データこそが唯一の知だという思い込みのまま、現場で生きている知恵の豊かさを見落としていたでしょう。