「自由とは、誰かが守ってくれるものだ」という思い込みがあった
自由とは権利として与えられるもの、あるいは強い権力者がそれを保護してくれるものだと、漠然と信じていました。憲法や法律が自由を定め、国家がそれを守る——そういう構図を当然のこととして受け入れていました。でも、その理解を持ったまま歴史を眺めると、どこかしっくりこないことがあります。法律があっても自由が失われた社会は無数にありました。民主主義を謳いながら、多様な意見が消えていった時代も少なくありません。では、自由とは本当に何から生まれるのか。その問いに正面から向き合ったことが、これまでありませんでした。
丸山真男著『「文明論之概略」を読む(中)』を読んで、その問いへの答えが鮮明に見えてきました。
「いろいろな自由が牽制しあうところに、自由がある」
本書の中巻で丸山が読み解くのは、福澤諭吉の自由論の核心です。福澤はこう述べています——「いろいろな自由が牽制しあって、どの自由も絶対的な力を持たない。そういうところに自由がある」。
これは逆説的に聞こえます。自由が自由を制限することで、初めて真の自由が実現する。一つの価値観や一つの権力が「正しい自由」を決めた瞬間に、他の自由は消える。だから自由は、複数の力が均衡している状態にこそ宿るというのです。
中巻ではさらに、文明の進歩を妨げる最大の障害として「権力の偏重」を挙げています。あらゆる社会関係に権力の偏りが組み込まれると、対等な議論ができなくなり、智徳の進歩が止まる。福澤が描いたのは、権力が分散し、多様な意見が互いに鍛え合う社会の姿でした。これは19世紀のイギリスの歴史家バックルの文明史から強い影響を受けた思想でもあります。本書にはさらに、バックルの議論と福澤の思想の交点、そして明治日本における権力構造の問題についての丸山の精緻な分析が展開されています。ぜひ本書でその深みを確かめてみてください。
「対立が多いこと」を問題と見なさなくなった
読む前は、社会の中で意見の対立が増えることを「危機」として受け取っていました。みんなが同じ方向を向いている社会の方が健全に見えていたのです。でも今は、それが全く逆だと分かります。
「いろいろな自由が牽制しあう」状態とは、多様な意見や価値観が生きている状態です。それが失われ、一つの声だけが大きくなるとき、社会は文明としての活力を失う。
日常の職場や家庭でも同じことが言えます。異論を言える空気があるかどうか。それが組織や共同体の健全さを測る指標になると気づいたとき、会議での「沈黙」の意味が変わりました。全員が賛成している場面が、健全な証拠ではなく、かえって危険なサインに見えるようになったのです。表面上の合意の下に、言えなかった意見が沈んでいないか。その問いを持てるようになったことで、周囲との関わり方そのものが少し変わりました。
「自由は与えられるもの」という発想が、一番危うい
丸山真男(1914-1996)は東京大学法学部教授・名誉教授として、戦後日本の政治思想研究を牽引した知識人です。本書は福澤諭吉の代表作を徹底的に読み解いた三巻シリーズの中巻であり、上巻で描かれた「文明の定義」をさらに深め、権力と自由の関係へと論が進みます。上巻から読み続けると、福澤の思想の全体像が立体的に見えてきます。
「自由は守られるもの」という受け身の発想が、実は自由を最も危険にさらすのだというこの洞察を、この本を読まなければ持てませんでした。