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新書嫁レビュー ・ 約 3 分

「自分は何もわかっていない」と言い続けた男が、なぜ最も賢い人と呼ばれたのか

「無知の知」は謙遜の言葉だと思っていた

ソクラテスが「私は何も知らない」と言ったという話は、どこかで聞いたことがありました。しかしそれは謙遜か、あるいは有名な人物らしいポーズだと思っていました。哲学者が「知らない」と言っても、実際には深い知識があるのだろうと。「無知の知」という言葉を知っていても、それが何を意味するのかを深く考えたことはなかった。賢者が「知らない」と言うとき、それがなぜ最も深い洞察なのかを——この本を読むまで、本当には理解できていなかったのです。

ソクラテスが「知らない」と言ったのは、相手を問い詰めるためだった

田中美知太郎が本書で描くのは、哲学的な偶像としてのソクラテスではなく、紀元前5世紀のアテナイで実際に生きた人間の姿です。デルポイの神託が「アテナイで最も賢い者はソクラテスだ」と告げたとき、ソクラテス自身は戸惑いました。そこで彼は「賢いと言われている人々」を次々と訪ね、問答を始めます。

将軍に聞く、政治家に聞く、詩人に聞く——「あなたが知っているとはどういうことか」を問い続けた。その結果わかったのは、彼らは「知っている」と思い込んでいるが、実は知っていないということでした。そしてソクラテスだけが「自分は知らない」とわかっていた。これが「無知の知」の実質です。問答の技術——産婆術(相手が自ら答えを生み出すよう問い続ける方法)——の実際と、ソクラテスが死刑判決を受けるまでの経緯は、ぜひ本書で確かめてみてください。

「知っている」と言い切れないことの価値がわかった

この本を読んでから、「詳しそうな人」と「本当に知っている人」の違いに敏感になりました。自信満々に答える人と、「確かにそう言えるかどうか考えてみます」と立ち止まれる人——どちらがより深く考えているか。

職場でも日常でも、「わかったふりをする」場面は多い。知らないと思われたくない、議論で負けたくない、専門家らしく見せたい——そういう動機で「知っている」という振る舞いをする。ソクラテスが2400年前に批判したのは、まさにこの「知ったかぶり」の構造でした。「自分が知らないことを知っている」という透明な状態から始める問いの方が、思い込みの上に積み上げた知識より深く現実に届く。その感覚が、この本を読んでから少しずつ自分の中に根づいてきました。

ギリシャ哲学の泰斗が、文献を尽くして描いたソクラテス像

田中美知太郎(1902〜1985年)は岡山県生まれ。京都帝国大学文学部哲学科卒業後、京都大学文学部教授を30年務め、日本のギリシャ哲学研究を一人で開拓した碩学です。プラトン全集の翻訳・編集の中心人物として知られ、国際哲学会の要職も務めました。本書は1957年の刊行で、史料を徹底的に精査し「歴史の上に実在したソクラテス」の姿に迫った学術的な伝記として高く評価されています。

この本を読まなければ、「無知の知」を一生「謙遜の言葉」として理解し続けていたはずです。知らないことを知っている——その立場から問い始めることが、思考の深さを決めるというソクラテスの教えは、2400年後の今日でも有効です。

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