「無常」とは、はかなさを嘆く言葉だと信じていた
散る桜を見て胸がしめつけられるとき、私はそれを「無常」という言葉で受け止めていました。形あるものはいつか壊れ、出会った人とはいつか別れる。その避けがたいはかなさを、しんみりと噛みしめることが無常を知るということだと、ずっと思い込んでいたのです。けれども、その理解のままでいると、日常のどこかがいつも晴れません。変化を恐れ、失うことを怖がり、手にしたものを手放せない。なぜこんなに心が重いのか、自分でもわからないままでした。アルボムッレ・スマナサーラ長老の『無常の見方』を読んで、その認識が根底から崩れました。
「自分が含まれていない無常」という落とし穴
本書が突きつけてくるのは、私たちが口にする無常には決定的な抜けがある、という指摘です。花が散るのも、人が老いるのも、いつも自分の外側で起きる出来事として眺めている。けれども本来の無常とは、物質も、自分の身体も、そして今この瞬間の自分の心さえも、絶え間なく生まれては消え続けているという、徹底して客観的な事実だと長老は説きます。あるレビュアーは「世間一般の無常には、自分が含まれていないという話に痛感させられた」と書いていました。私もまさにそこで足が止まりました。変わらない自分という前提があるからこそ、私たちは未来に過剰な期待をかけ、その期待が裏切られて苦しむ。長老はこれを淡々と腑分けしていきます。あるレビュアーは、無常を「私の身体」「私の心」「他の生命」「世界の物質」といったいくつかのカテゴリーに分けながら読むと、すっきり整理して理解できたと書いていました。一つの言葉のなかに、これだけ多くの層が畳み込まれていたのです。本書ではさらに「死を認めれば幸福になる」という章で、変化を直視することがなぜ恐れではなく安心につながるのかへと話が踏み込んでいきます。気になる方は、ぜひ本書で確かめてみてください。
期待が減ると、心が軽くなるという発見
読み終えてから、ものの見え方が少し変わりました。たとえば仕事で予定どおりに進まないとき、以前なら「こんなはずではなかった」と苛立っていました。でも、状況も相手も自分も刻々と変わり続けているのなら、最初に思い描いた通りにならないのはむしろ自然なことです。そう受け止められるようになると、無理な期待が静かに減っていきました。あるレビュアーが「五つの無常を理解すると無理な期待が生じず、妄想による苦しみが減る」と整理していましたが、その感覚は私自身にも訪れました。失くしものをして落ち込む朝も、約束をすっぽかされて腹を立てる夜も、その底には「ものや人は変わらずそこにあるはずだ」という前提が隠れていたのだと気づきます。変化は失うことではなく、ただ流れ続けているだけ。そう思えた日から、握りしめていた手のひらがほどけて、肩の力が抜け、呼吸が深くなった気がします。
知らないままでは、ずっと損をしていた
この本を読まなければ、私は無常をただの感傷として抱え続け、変化を恐れたまま生きていたはずです。著者のスマナサーラ長老は、スリランカに生まれて十三歳で出家し、ケラニヤ国立大学で仏教哲学を講じたのち来日、日本テーラワーダ仏教協会で四十年以上ヴィパッサナー瞑想を指導してきた初期仏教の長老です。累計百万部を超える著作で、難解な仏教思想を生活の言葉に翻訳してきたこの人だからこそ書ける、明晰な無常論がここにあります。同じ言葉を使いながら、まるで逆の意味で受け取っていたかもしれない。そう感じた方にこそ届く一冊です。