本を買うなんて、図書館で借りれば十分だと思っていた
読みたい本は図書館で借りればいい。そう思って長いあいだ過ごしてきました。本棚を増やすのはお金もかかるし、置き場所にも困る。借りて読めば内容は頭に入るのだから、わざわざ買う必要などない。むしろ買わずに済ませるほうが賢いやり方だとさえ思っていました。理屈ではそう納得しているのに、なぜか自分の中に積み上がっていく知識に芯が通らない感覚がありました。読んだはずの本の中身が、半年もすればきれいに抜け落ちている。たくさん読んでいるはずなのに、自分の言葉として残るものが少ない。その違和感の正体を、この本は静かに、しかし的確に突いてきます。
「身銭を切る」という一言が、読書の重みを変えた
本書が繰り返し説くのは、本は自分のお金で買い、しかも書き込みながら読め、という考え方です。借りた本は返さなければならないから、線も引けず、余白に思いつきも書けない。けれど身銭を切って手に入れた一冊は、汚し、書き込み、何年も後にまた開ける。そうして繰り返し読むうちに「本当に面白いと思える本」だけが手元に残り、それが自分にとっての古典になっていく——著者はこの精読の積み重ねこそが知的生活の土台だと語ります。著者自身も幼い頃に『三国志』をむさぼるように読み、そこから漢文への興味へと広がっていった原体験を率直に明かしており、繰り返し読むことの面白さが机上の理屈でないことが伝わってきます。1976年に刊行された本でありながら、語学はすきま時間にやれ、わからないことをわかったふりをするな、といった指摘は今読んでも古びていません。本書では、書斎の整え方やカードによる情報整理、食事、睡眠、さらには結婚生活と知的生活の折り合いにまで踏み込んだ話が展開され、知的に生きるとはどういうことかが具体的な作法として語られていきます。
一冊を読み込むという発想が、日常を変えた
この本を読む前、私の読書はとにかく冊数を稼ぐものでした。月に何冊読んだかを数え、読み終えた本はそのまま手放す。読んだ数だけ賢くなった気がして、その実、内容はほとんど残っていませんでした。けれど「繰り返し読め」という言葉に従って一冊をゆっくり再読してみると、初読では素通りしていた一行が急に立ち上がってくる体験をしました。同じ本なのに、二度目はまったく違う本に見える。三度目には、初読のときの自分がいかに浅く読んでいたかが恥ずかしくなるほどでした。それ以来、気に入った本には鉛筆で線を引き、余白に日付と思ったことを書き込むようになりました。読み返したときにその書き込みが過去の自分との対話になり、本棚に並ぶ背表紙が、ただの所有物ではなく、自分の思考の記録に変わっていく感覚があります。
知らないままなら、ずっと冊数を数えていた
この本に出会わなければ、私はこれからも読んだ本の数を誇るだけで、中身の残らない読書を続けていたはずです。著者の渡部昇一は上智大学で長く英語学を講じた研究者であり、本書は累計118万部を超える、講談社現代新書でも屈指のロングセラーとして読み継がれてきました。半世紀近く読まれ続けてきたという事実そのものが、ここに書かれた知的生活の作法が一過性の流行ではないことを物語っています。本を借りるか買うかで迷ったことのある人ほど、この一冊で自分の読書観が揺さぶられるはずです。