わかりやすく書ける人は、特別な才能を持っていると思っていた
メールでも報告書でも、「何が言いたいのかよくわからない」と言われることがありました。自分では伝わっていると思っているのに、読んだ人に意味が届かない。文章を書くのが得意な人は生まれつきそういう才能があるのだろう、と長いあいだ思っていました。上手く書けないのは語彙が少ないから、もっとよく知っている人が読めば伝わるはず——そういう言い訳で、文章への向き合い方を変えることを後回しにしてきたのです。
「短文から始めよ」——文章の問題は才能ではなく構造だ
清水幾太郎がこの本の最初に語るのは、「短文から始めよ」という具体的な指示です。一文を短くすることで、論理の単位が明確になる。「AはBである。なぜならCだからである」という構造が見えてくる。これは才能の問題ではなく、技術の問題です。
本書には「『が』を警戒しよう」という章があります。「〜ですが、〜で、〜なのですが」という文章は、論理的な接続を「が」という言葉で曖昧にしているだけで、実際には何の関係も示していない。「日本語を外国語として取り扱う」という章では、日本語の曖昧さに甘えず、英語を翻訳するつもりで論理を組み立てることが勧められています。これらの技術は、「論文」だけでなく、メール・報告書・プレゼン資料など、あらゆる文章に応用できます。本書後半の「経験と抽象との間を往復しよう」という方法論については、ぜひ本書で確かめてみてください。
書き方が変わると、考え方が変わった
この本を読んでから、文章を書くときに最初に「これは一文で言えるか」という問いを立てるようになりました。一文で言えないとき、それはまだ自分が考えを整理できていないサインです。
「何が言いたいのかよくわからない」という文章の多くは、書き手が「何が言いたいのか」を自分でも理解していないまま書き始めているときに生まれます。論理を文字に落とすことと、論理を組み立てることは同時に起きる——書くことで考えが整理される。その逆説を清水幾太郎は1959年に明快に語っています。「文章は才能」という信念を捨てて、技術として学べるものだと認識してから、書くことへの怖さが減りました。
戦後日本の最も論理的な社会学者が書いた文章技法の古典
清水幾太郎(1907〜1988年)は東京都生まれ。東京帝国大学文学部社会学科卒業後、学習院大学教授を務めた社会学者・評論家です。論理的で平易な文体と鋭い社会批評で知られ、戦後日本の知識人として広い影響を持ちました。晩年に主張を大きく転換させたことで物議を醸しましたが、論文・評論の技法に関する本書の価値はその論争とは独立しています。1959年刊行、今日も文章作法の古典として読み継がれています。
この本を読まなければ、「文章力は才能」という思い込みを手放せないまま、技術として改善できることを見逃していたはずです。書き方が変わることで、考え方が変わるという逆転の体験がここにあります。
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